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『これが本当の「忠臣蔵」』を読んで

これが本当の「忠臣蔵」

ドラマや映画では分からない忠臣蔵の史実に迫る書籍。
もはや説明するまでもない忠臣蔵のストーリーですが、実際に後世に残されている史料の中で、偽物らしきものを除いて信憑性の高いものだけから歴史を再構成する試みは結構読み応えがありました。
後日談的な書物は、ストーリーありきの創作物的なものが多いらしい。
現在の話であっても当事者で言うことが食い違うことばかりなので、この真偽を探る行為というのはなかなか難しくも面白いものがあります。



さて、この本の中で面白いと思ったポイントは、同じ赤穂浪士であってもその目的は微妙なところで大きく異なっていたというところ。

赤穂藩の名誉回復」を第一義に掲げるのか、「武士の一分」(個人としての武士のプライド)を第一義に掲げるのか。

似ているけど大きく異なるこの目的のどちらを重視するのかによって、取りうる手段は変わってくる、ということです。

つまり、「討ち入りをするかどうか」、ということについては、
「赤穂藩の名誉回復」が目的であれば、討ち入りは数あるオプションのうちの一つに過ぎないのだけど、
「武士の一分」を前面に出した瞬間、討ち入りというのは唯一のオプションになるのですね。

表面的には、みな「主君の無念を晴らすため」という言葉を使っていて、一見まとまっているようにも見えるけど、その根本の違いがあるために意見がまとまらない・・・。
でも結果的には、「もうここしかない」というタイミングで、跡取りである浅野大学が本家に引き取られて御家再興の望みは途絶えるわけです。
ちょいとした神風。
この神風で、どちらの「目的」の人にとっても「もう討ち入りをやるしかない」と一丸になるわけなのですが、このタイミングがずれたり、裁決が変わっていたとしたらおそらく歴史は変わっていただろうと。

当たり前ですが、後世の人間は「討ち入りありき」で物事を考えますが、丁寧に時系列で事実を洗っていくと、実は「討ち入り」というのは細い可能性のうちの一つの結果でしかない、ということなんです。
面白いですね、歴史って。

「まずはイシュー(目的)を定義して十分擦り合わせてからことを進めるべし」ということはビジネスの鉄則ですが、実際にはそうもうまく擦り合わないし、そこで無用に時間が過ぎちゃったりもする。
でも、そんな時に、外部環境が強烈に変化することによって、イシューなんてどうでもよくなって、手段の元に一丸になっちゃうことってあるんですよね。
これもまたリアリティなんだなと。

ということで、関係ないことも含めて想像膨らませながら読んでしまった本でした。