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『ある男』を読んで、「ダイバーシティ」の意味を考える

平野啓一郎さんの『ある男』読みました。
映画化も予定されている前作の『マチネの終わりに』でファンになってから、ずっと注目していた作者です。



あらすじにはこのような記載があります。
***
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から、「ある男」についての奇妙な相談を受ける。
宮崎に住んでいる里枝には、2歳の次男を脳腫瘍で失って、夫と別れた過去があった。長男を引き取って14年ぶりに故郷に戻ったあと、「大祐」と再婚して、新しく生まれた女の子と4人で幸せな家庭を築いていた。ある日突然、「大祐」は、事故で命を落とす。悲しみにうちひしがれた一家に「大祐」が全くの別人だったという衝撃の事実がもたらされる……。
里枝が頼れるのは、弁護士の城戸だけだった。

人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。
「大祐」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。
人間存在の根源と、この世界の真実に触れる文学作品。

***

ということなのですが、小説なので、ストーリーの内容ではなく個人的な感想を述べておきます。
一言で言うと、後を引く、余韻の残る作品かな。
読んで終わり、ということではなく、読んだ後にいろいろ考えさせられる本でした。

人間って当たり前だけど複雑な存在なんですよね。
いろいろな側面があり、単純化できない。
所属するコミュニティごとに「顔」があるし、その「顔同士」は決して一つに統合されるわけではない。
個人の中のいくつかの「顔」が重なって、なんとなくの「人格」みたいなものができる。
だから、「人格」なんてものは、とても一言で語り切れるものじゃないし、しかも付き合うコミュニティによっても変わる極めて流動的なものなんです。

そう考えると、私たちが外側の属性や肩書きで人格というものを一括りにされる時に感じる違和感や窮屈さの正体がよく分かります。
「自分はもっと複雑な存在なんだ」と。

私はかつて商社にいましたが、いわゆる「商社マン」というレッテルなんかはその最たるもので、その言葉を使われるたびに「なんだよ、その安直なものの見方は」と軽い憤りを覚えていました(笑)

これは平野さんの『私とは何か――「個人」から「分人」へ』に書かれている「分人主義」のエッセンスでもあるわけですが、私自身はこの考え方にはものすごく共感を覚えます。
だからこそ、人に簡単にレッテルを貼ってはいけない、と常に思うわけです。

ちょっと話は変わりますが、よく「ダイバーシティ(多様性)を尊重しよう」という言葉が組織運営の文脈で語られますよね。
この言葉も、「分人主義」を前提に考えると、その本質はものすごく難易度が高いことが分かります。
個人個人が多様であると同時に、個の内側もいろいろな人格が同居している多様な存在なわけです。
多様な個人」×「個人の内側の多様性」ということで、本来の「ダイバーシティ尊重」という言葉の意味は、とても難しく、チャレンジングなことだということも分かります。
だから、マネジメントの立場に立つ人にとっては、「人のことを分かったつもりにならない」という心構えが大事なのです。

かなり話が逸れてしまいましたが(笑)、私にとってはそのような「個人の内面に宿る複雑さ」ということを考える機会を与えてくれる本でした。
ストーリーのことは敢えて触れていないので、気になる方は是非読んでみて!

追伸:『マチネの終わりに』の映画は2019年秋だそうです。楽しみ!